末期と元気

誠に急だが今日は急遽仕事を休みにした。親父の具合が悪くてフォローが必要になった。

 

親父は。。親父はもうあちこち癌で末期だ。が、老人の末期患者を病院勤め時代からたくさん見てきたが、総じてみんな元気だ。「この人本当に死期が近いのか?」と思えるほど大抵は元気だ。ロウソクが最期に明るく燃えるそれと同じだ。

 

ボクの親父も末期と言われからもう7年くらい延命している。一時期は在宅で酸素吸わないといけないくらい悪くした時期があったが、今はなにかを振り切ったみたいに元気だ。と思っていたが、いよいよその時は近いかもしれない。漫画家の赤塚不二夫がそうだったように、末期癌の老人は旅立つ直前までは大体元気だ。

なんだか疲れた。。

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前略、眺めているだけで幸せな気分になれることもあります。

短いお休みの最中の話。

 

  もう仕事のしすぎで精神的には溺れ死ぬんじゃないかってくらい余裕がなかった時からひと月ほどが過ぎ、再び短いお休みに突入。あと数日もすれば再び始まる毎日。もうこのまま永遠に仕事したくない。。

 

マルチステージ制の人生を生きる

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前略、自分の中にある違和感を解決するには、適応するしかない。
嘆いていても、人生は巻き戻せないのだから。
生き方に関する話。

今年は余計な歳を絶対増やさない」と決めていたはずなのに、今月、勝手に歳がひとつ余計に増えているという事実に気がついた。気がついたのが、守衛室で早朝に書いた鍵貸出簿のサインだというのもかなりイケテナイ。。

僕はずっと違和感を抱えていた、人は生きている間はずっと歳を取り続ける。なのに世間がボクに慣わしてきたドグマに、僕は一向に適合出来ていない。この年になったらこうだとか、残りの人生はああだとか、そういうものに全く適合出来ていないのである。先月、埋められない溝の話をしたけれど、それもこれと同じ話で、正直生き方にずっと違和感を抱えているのだ。

本当に生きたい自分。本当はイメージ出来ている。なのに、世間のドグマとはかなりかけ離れていて、周囲は誰も認めはしない。が、そんなドグマばかりを気にしていたら、ここから先、学習→就職→引退の保険会社なんかが言う「3ステージ制」という自分の中で全く消化も適応も出来ない型に無理矢理嵌められて、自分を弱められて、そして死んでいかなければならない。

で、「マルチステージ制」という言葉の登場。書籍「Life Shift」の中で書かれていたことだが、要は人は長生きになっていて、フィジカルは何歳からでも向上できることが医学的に判明した以上、手を替え品を替えでキャリアを変遷しながら最期の1日まで自分の足で歩き続ける生き方が必要だと言うのである。なるほどこれなら自分の中に違和感はない。

そうと判ればここからの生き方は、本当に生きたい自分を、イメージどおりに生きる。僕はまだまだいろんなことがやり足りていないし、生き足りてもいない。余計な歳がまた増えたなんて落ち込んでいるばかりではいけない。ここからが勝負という意気込みで、また歩き始めてみるよ。

いつまでたっても埋まらない、僕の精神的な溝の話

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話しが合うとか、価値観が合うとか、

そんな上っ面なんかボクにはどうでもいい、

僕の中で、未だに埋まっていない「溝」の話。

 

  前回、同じ世界と同じ時間を過ごした人を探そう。って話をしたけれど、そう思って1ヶ月の時間が過ぎたが、実際のところ、そのような人と話が合ったり価値観が合ったりみたいなところは、仕事とかで付き合う仲間とか、そういうことなら特段気にならないわけだけど、私生活となるとそうもいかない。

  27歳の時に「最期の1日まで自分の足で歩き続ける」と自分に約束して、通り一遍の無難な線路から飛び降りて自由への逃亡を始めてからもう24年もの時間が過ぎて、大凡普通の人生の2回分くらいの異なるキャリアを過ごして、ついでに言うと2回も結婚して2回も離婚したときたもんだ。こんなの同じ世代に普通に理解してもらえることなんかないし、僕より後ろの世代から見たらセンスの悪いギャクみたいに捉えられている。そう、ボクの私生活、というより人生をまともに聞いてくれる人を探すのは、もはや望むべくもないのだ。

  更に都合の悪いのはボクが男だということだ。何がどうあっても、男と女の間に生じた溝は常に「男に非がある」ものと信じられていて、男には弁明の機会は与えられていない。黙って世間の非難に耐えて、誰彼構わず頭を下げて、一体ボクが何をしたというんだとは思うけど、離婚は結果責任であって、「弁明の余地はありません」と、ずっと言葉を飲み込んで生きて来たんだ。そうやって生きて来た離婚経験者は多分、ボクだけじゃないはずだ。

  なのに世間はバツ2のボクを「欠陥商品」として扱う。もし婚活市場を秋葉原に例えるなら、裏通りの部品屋の軒先に並べられた「動くけど未保証」のジャンク品扱いだ。ボロくて古いがちゃんと動く、性能だってそんなに悪くない。が、皆は一様にその見た目と経年だけを見て、「欠陥商品だ、動くはずもない」と信じていて、手に取ろうとさえもしない。

  それでもボクはこの店の軒先で、ボール紙にマジックで雑に書かれた「ジャンク品」という札の下、誰かが手に取る日を待つしかないのだ。「ボクは正常だ、生きている!」と訴えたところで、誰も気に留めようとなどしないのである。それに、そんなものに興味を示す時点で多分その人も世間から好事家のような扱いを受けるだろうし、当然ボクである必要もない。なのにボクは何処かにその好事家と呼ばれることも厭わない奇特な者を探していて、いつかは目に止められる。そう信じている。

  が、同じ時間を生きた世代から見たら、ボクの24年はあまりにも出鱈目で、到底理解などできるはずもなく、理解したところでボクと共に生きるなんて考えることはしないだろう。だからと言って、違う時代を生きた人と違和感なく接したところで、今度はその人は共に生きる相手がボクである必要性が全くない人で、ボクは一体どんな人を探せばいいのだろうか?という世代の「溝」を、ずっと埋められずにいるのだ。。

同じ世界・同じ時間

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今朝起きて、ふと気がついたこと。

この電話機のデザインを見て、違和感を持たない人は、

僕の周囲にどれだけ存在するだろうかと。。

 

 周囲がみんな若い人ばかりで、今まであまり考えたことはなかったけど、同じ世界と同じ時間を過ごしてきた人というのは減る一方で、夥しい数の別な世代は、自分が動き続ける限り無限に増殖していく。そして無限に増殖したそれ以外の世代の中で少数派になっていき、そしてその多数派の中で僕は特異点になりつつある。いや、もうなってる。

  ならば探そう。この電話機のデザインに違和感を持たない人を。そして見つけよう、同じ世界を観た人を。同じ時間を生き抜いた最愛を。

 

もっとも、僕の生きた世界と生き抜いた時間は、あまりにも異端だが。。

 

 

あしたまた。

前略、お正月休みが、今日で終わる。

全然休めていないけど、明日からまた仕事。

そう、明日から仕事。

 

  仕事行きたくない。正直な気持ち。数日休んだくらいでは休んだ感じにならないね。明日また朝が来たら日の出も待たないでまた西新宿。

 

まぁ、朝になったら体が勝手に仕事に向かう。

本能、みたいなものかな。。

揺らいでしまう気持ち。

前略、もう忘れないといけない。

忘れて前に進まないと。

そう言い聞かせる度に気持ちが揺らいでしまう。

 

  引きずる。とはまた違う。忘れて前に進まないといけないのに、なかなかやめられない。折に触れてその人のことを思い出しては気持ちが揺れてしまう。ずっとこんな状態を繰り返しているんだ。もう忘れないとね。

 

短い冬休みが、何も整理出来ないまま終わってしまうよ。。

もう少し、仕事を休みたい。。

 

というよりも、このまま永遠に、何もしたくない。