いつまでたっても埋まらない、僕の精神的な溝の話

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話しが合うとか、価値観が合うとか、

そんな上っ面なんかボクにはどうでもいい、

僕の中で、未だに埋まっていない「溝」の話。

 

  前回、同じ世界と同じ時間を過ごした人を探そう。って話をしたけれど、そう思って1ヶ月の時間が過ぎたが、実際のところ、そのような人と話が合ったり価値観が合ったりみたいなところは、仕事とかで付き合う仲間とか、そういうことなら特段気にならないわけだけど、私生活となるとそうもいかない。

  27歳の時に「最期の1日まで自分の足で歩き続ける」と自分に約束して、通り一遍の無難な線路から飛び降りて自由への逃亡を始めてからもう24年もの時間が過ぎて、大凡普通の人生の2回分くらいの異なるキャリアを過ごして、ついでに言うと2回も結婚して2回も離婚したときたもんだ。こんなの同じ世代に普通に理解してもらえることなんかないし、僕より後ろの世代から見たらセンスの悪いギャクみたいに捉えられている。そう、ボクの私生活、というより人生をまともに聞いてくれる人を探すのは、もはや望むべくもないのだ。

  更に都合の悪いのはボクが男だということだ。何がどうあっても、男と女の間に生じた溝は常に「男に非がある」ものと信じられていて、男には弁明の機会は与えられていない。黙って世間の非難に耐えて、誰彼構わず頭を下げて、一体ボクが何をしたというんだとは思うけど、離婚は結果責任であって、「弁明の余地はありません」と、ずっと言葉を飲み込んで生きて来たんだ。そうやって生きて来た離婚経験者は多分、ボクだけじゃないはずだ。

  なのに世間はバツ2のボクを「欠陥商品」として扱う。もし婚活市場を秋葉原に例えるなら、裏通りの部品屋の軒先に並べられた「動くけど未保証」のジャンク品扱いだ。ボロくて古いがちゃんと動く、性能だってそんなに悪くない。が、皆は一様にその見た目と経年だけを見て、「欠陥商品だ、動くはずもない」と信じていて、手に取ろうとさえもしない。

  それでもボクはこの店の軒先で、ボール紙にマジックで雑に書かれた「ジャンク品」という札の下、誰かが手に取る日を待つしかないのだ。「ボクは正常だ、生きている!」と訴えたところで、誰も気に留めようとなどしないのである。それに、そんなものに興味を示す時点で多分その人も世間から好事家のような扱いを受けるだろうし、当然ボクである必要もない。なのにボクは何処かにその好事家と呼ばれることも厭わない奇特な者を探していて、いつかは目に止められる。そう信じている。

  が、同じ時間を生きた世代から見たら、ボクの24年はあまりにも出鱈目で、到底理解などできるはずもなく、理解したところでボクと共に生きるなんて考えることはしないだろう。だからと言って、違う時代を生きた人と違和感なく接したところで、今度はその人は共に生きる相手がボクである必要性が全くない人で、ボクは一体どんな人を探せばいいのだろうか?という世代の「溝」を、ずっと埋められずにいるのだ。。